中村一成『思想としての朝鮮籍』

1947年5月2日大日本帝国憲法下の最後の勅令外国人登録令」により旧植民地出身の在留朝鮮人は外国人と見なされ、強制的に「朝鮮籍」とされた。植民地支配下に帝国臣民とされ日本国籍を有する彼らを、翌日施行される日本国憲法の享有者である日本国民から排除するためである。沖縄の米軍統治とともに、戦後民主主義のとば口にあるこのどす黒い矛盾。戦争の構造的な要因であった植民地主義の分析と反省と清算を経ずして手にした平和憲法を、しかしそれでも我々は守り通さなければならないのだが・・・。

朝鮮籍」は実在する国家の国籍ではない。1947年、大韓民国朝鮮民主主義人民共和国もまだ成立していない。解放後、呂運亨らにより朝鮮人民共和国の樹立が宣言されたが、米軍政は直ちにこれを弾圧する。「朝鮮籍」は日本において外国人であることを強要するために、つまりは日本国憲法の保証する権利の枠外にあることを明示するためだけに創出された記号なのである。在日の人々のうち、韓国籍が大半を占める今、「朝鮮籍」は北の共和国の国籍だと考えられがちだが、そうではない。もし不埒な言い方が赦されるのなら、それは依然として所属先の国民国家を持たない人々の聖痕と言えるかもしれない。
 
この著作は、朝鮮籍を持つ六人のルポルタージュである。高史明・朴鐘鳴・鄭仁・朴政恵・李実根・金石範。いずれも、思想、文学、民族教育、社会活動の領域で名を知られた人たちだ。
 
終始息が詰まるような緊張感の中で読まされる。自分が善しとしてきた微温的な価値観を土台から掘り崩してしまうような圧倒的な言葉が次から次へと飛びかかって来るからだ。確かに戦後社会の裏面について多くを知ることも出来るのだが、それは「傾聴に価する」という生半可なフレーズではとらえ尽くせない迫力でこちらのはらわたを鷲づかみにする。上述の六人の言葉が迫力を持つばかりではない。筆者中村一成の筆力が生み出す迫力でもある。無論ここで言う筆力とは、確たる思想に裏打ちされた力のある言葉を生み出す能力のことだ。いや、能力ではなく、実存と言うべきか。
暴力と脅しで押し付けられた言葉が日本語である。とはいえそれは多くの二世にとっては母語だった。そして彼らを人間たらしめている母語(mother tongue)とは、朝鮮人を貶める言葉を多く孕んだ日本語でもある。 愛憎半ばする「母語」を突きつめて、在日二世である自分の実存を紡ぎだしていく。それが鄭の創作であり、自己解放だった。
金時鐘梁石日とともに詩誌『ヂンダレ』の同人であった鄭仁を語った一節に倍音のように響いているのは他ならぬ中村一成その人の思想と感情であろう。植民地主義の身体化として現前する「母語」としての日本語を創作の場としながら、田中克彦の言う「国家語」に向かって果敢な戦いを続けた『ヂンダレ』の文学的営為を共感をもって受け止めることができる者だけに書ける言葉である。
 
筆者は本書執筆の動機をつぎのように語っている。
人間一個の実存にとって、これだけは譲れないものを「思想」というならば、金石範の朝鮮籍とはまさに「思想」に他ならなかった。以降も金は、「日本政府がその不当な政策を改めて、北朝鮮との国交を正常化することを第一に求めつつ、自分はいずれの国籍も拒否すると言い続けてきた。私はそこに込められた「思想」を辿りたいと思い、以来、朝鮮籍を「譲れぬ一線」とする人びとに会い、その思いを聞いてきた。
 南北分断に抗議して蜂起した民衆を国家権力が圧倒的な暴力で弾圧・虐殺した済州島4・3事件を生涯のテーマとして文学活動を続ける金石範は、在日朝鮮人作家として特筆されるだけでなく、「日本語文学」の中にしかるべき位置を占めなければならない大きな存在だ。国籍を拒否した文学者の思想=譲れぬ一線を、私は以下に引用する部分に強烈に感じさせられた。ある大学でのシンポジウムでの彼の発言をトレースした個所である。引用が長くなる。
じつは三、四日前の夜、軽く一杯呑んだんですよ。おかずの代わりに何か観ておったら、酒だけじゃなくて他の方に神経が行く(ので酒量が減る)から、テレビをつけたんです。
何かもみあいをやっているわけなんです。
アナウンサーが「あれは東京の警視庁から来た警官」だと言うんですよ。沖縄には警官が足りないのかと。異様な状態を見て、酒を飲みながらいろんなことを考えて・・・・・・。
松田なんとか(道之)が四〇〇、五〇〇名の軍人や警官を連れて行って、沖縄をいわば占領する。侵略ですよ。それを歴史的用語なのか「琉球処分」という。戦前の教科書には豊臣秀吉の行為が「朝鮮征伐」として載ってたけど、あれは侵略なんですね。それを「征伐」とね。琉球処分というけど、略奪であり侵略なんですよ。処分は何か悪いことをしたから罰を与えるとか、ゴミがあったらゴミを捨てるとかね。それが処分ですよ。それを独立国だった沖縄(琉球)に対してね。歴史的な言葉だから(使ってるの)かもしれんけど!
(一九四八年四月三日の)一年前、三・一独立運動の記念日に済州島全土から三万人くらいが集まってね、「親日派の排斥」とか「米軍は出ていけ」とかやったわけです。それに警察が発砲して、六人が殺され八人が重傷を負ったわけ。それでストライキが起きたら、済州島の米軍政庁が本土から警官を五〇〇人くらい入れて、「西北青年会」というテロ団体の人間が、初めて四〇〇人くらい入ってくるわけです。
私ね、辺野古の問題は臨界点に達していると思いますよ。もしあの足の悪い女性が死んだらどうするんですか? 安倍さんは「美しい日本」とかいうけど、醜いですよ。沖縄にしてもね、代議士とか内部に裏切り者を作るわけですよ。これはね、沖縄の人間を侮辱しておるんですよ。これが日本なんですかっ!

怒気を含んだ金石範の発言が、この日本で現在進行している事態の本質をどれだけ鋭く剔抉しているか。中村一成は次のように書いている。

さげすまれ、本土の犠牲にされ、「自国」の軍警に弾圧され、執拗な分断工作の対象とされ続ける──。九〇歳の作家は、沖縄に済州島を重ね合わせていた。四・三の背景には、かつて政治犯たちの流刑地であり、権力に対する批判意識が強い済州島への、権力側の差別意識と政治的な警戒心があった。

思想とは、かりにそれがナショナリズムを標榜するものであったとしても、民族や国家という限定的な諸条件を超え出て、普遍性の地平を志向しつづける契機をもつものでなければならないであろう。それが、個人の信条や信念と思想とを分かつ決定的な違いに相違ない。と同時に、思索を続ける人が現実の桎梏の中にある数多くの他者への共感と一体感とをもち得ていることが思想を成り立たせるもっとも根本的な条件だ、というのももう一方の真実だろう。

辺野古・高江に言及する本土がわの発言が決して触れようとしない沖縄と日本の歴史的経緯を、金石範は当然のごとく視野に入れながら語っている。そして、ひとりの「足の悪い女性」──おそらく、沖縄戦の経験から辺野古での抗議活動の前線に立ち続ける、金石範と同世代にあたる島袋文子さんだろう──をテレビニュースの映像から見逃していない。四・三を畢生の主題として文学活動を続けてきた金石範の思想の強靭さと確かさを改めて噛みしめさせられる発言だ。

 

「思想としての朝鮮籍」。国民国家への帰属をあらかじめ断たれつつも、そのことを自らの立脚点として、生き、苦しみ、闘ってきた人々の言葉の数々は、2017年の日本社会を生きる我々にとっても貴重な福音になるかもしれない。とりわけ、時の権力によって、憲法に保障された権利を一つひとつ奪われ、自由に考え発言し生活する権利を踏みにじられながら、失われた主体性を国家意思と同調することで疑似的に回復できると錯覚させられている多くの「日本人」にとって、本書が与えてくれる示唆は意味深い。