反知性主義について2

現代思想』2月号所載の上野俊哉反知性主義に抗うためのいくつかのアイディア」はステキな論考です。「反知性主義にサヨナラするオイシイ生活のすすめ」が語られているからです。
私流の要約だと飛躍が過ぎるようなので、筆者の言葉に耳を傾けてみるとしましょう。
いきなりですが、この論考の結語を引きます。ちょっと長くなります。(以下、引用個所はすべて同論考からです)

反知性主義を溶かして無化する知性は、たとえば生活を少し不便にする身ぶりからはじまるかもしれない。人とのやりとりによるサービスやコミュニケーションのあくなき向上よりも、モノとの交渉を、それに関わる人間とのやりとりも含めてモノからの抵抗を楽しむような生活、あるいはそのような技芸(アルス)を、徹底して感覚的かつ美的に追求することである。実際、あらゆる政治的争点はモノとのつきあいをめぐる対立である。この美的な追求は政治を美学化することとは異なり、むしろ社会にそもそも内在する美的なものを解放するだけだ。まちがってもみんなで表現、芸術しましょうという話ではない。道徳や修身ではなく、何だかそっちのほうが楽しそうだな、という感覚や美的なものから倫理的なものは事後的に生まれる。こうした身ぶりは、デモや署名活動、投票行為と同じくらい、反知性主義をこれ以上はたらかせないためには大切なのではないか。

「生活を少し不便にする身振り」や「モノからの抵抗を楽しむような生活、あるいはそのような技芸」が、どうして反知性主義にサヨナラするために有効かというと、「反知性主義は自分こそが犠牲者であるという主張をアイデンティティの支えにする」からです。反知性主義に特徴的なメンタリティである「享楽の盗み」──「『誰かがうまくやっている』という妄想」──の対極に不便さを楽しむアルスを置けば、「誰かが本来は自分が受けとるはずだった享楽を盗んでいる」とか「他者によって自分の欲望が生きられてしまっている」というパラノイアを、幾分かでも無化することは可能のように思えます。すくなくとも、「誰もが自分を犠牲者victimと思いたいという奇妙な状況」が、私たちの周囲に忍び寄ってくることに対する抗いとはなるでしょう。多少、楽観的に過ぎるかもしれませんが・・・。
こんな話を私の教え子(高校生です)にすると、すぐさま「不便な生活って、オイシイ生活じゃないじゃん」という、一見至極当然の反応が即座に返って来そうです。彼らには、現状で与えられている──と彼らの感じている──モノや環境はひとかけらでも譲り渡したくないという強固な「意志」があるようです。日本のエネルギー政策を考える意味でもエアコンの設定温度を上げて節電に取り組もう、と提案しても、「だって暑かったら授業に集中できないじゃん」という反論の余地のない答えを間髪入れず浴びせかけられます。こういったやりとりの中にも、反知性主義に抗う難しさを、感じてしまいます。──もちろん、ここでいう、「彼ら」とは私が感じている「典型的状況における典型的な性格」の「彼ら」にすぎず、実在する生徒たちとイコールではありません。念のため。現実には知的に思考することのできる生徒は何人もいます。
さて、問題は「オイシイ生活」でした。この言葉の意味は、「ほんとうのおいしさはどうやったら得られるかを考えるライフスタイル」とでも言い換えれば、わかりやすいでしょうか。──よりわかりやすくするためにもう少し筆者の助けを借りることにします。
たとえば、ほんとうに美味しいお豆腐を食べようと思ったら・・・

日本ではまともな豆腐にありつくのがどんどん難しくなっている、天然にがりの使用が食品衛生法など行政の指導によってできなくなり、おまけに遺伝子組み換えでない大豆を使用した豆腐を探すにも気を遣わなければならなくなっている。当然、町の豆腐屋や、笛を吹いて呼び売りをしている流しの豆腐屋は消え去りつつある。この国、この土地で育まれてきた食材の固有性、本格的な製法──というか、端的に美味しく食べるためのやり方──は、資本主義と生政治的管理の両面において根絶されつつある。

という事態にいやでも直面させられます。豆腐大好きの私にとって実に深刻な事態です。そして、美味しい豆腐へのこだわりから、

自分の国や土地ならではの食材や製法を忘却し、抑圧してもかまわないとする無神経さ、(文化や伝統を含む)環境に対する無遠慮、こうした態度が反知性主義のなかにはあって、市場価値と官僚的な合理性がその公然のよりどころとなっている。

という現実がしだいしだいにクローズアップされてきます。だから、このように宣言することができるのです。

冗談めかして言えば、昔からある食材や料理法を「国民」から奪っておいて何が国家か!と申し立てる権利が日々の夕餉の卓には与えられている。

いやいや決して冗談ではないでしょう。まさにその通りだと思います。これこそ「オイシイ生活」を保障する基本的な権利でなければなりません。
もちろん、「オイシイ生活」が、反─反知性主義の論理的拠り所になると強弁することはできませんが、

安楽な消費者であることに恥じらいをもっていたり、一定の軽蔑や批判を生活のなかにうめこんだ社会

を素描することはできます。

そのためには、速さや量よりも、質、一定の感覚や趣味を育んでいないとわからない価値を重視する文脈を日常のあちこちに少しずつ広げていくことが求められる。グローバル資本主義を批判する学知を伝える努力と同時に、市場では意味がないとされるものに高い価値を認める身ぶりを日常生活のうちに掘っていくことが望ましい。

確かに、家庭生活や勤務時間の別を問わず、「日常のあちこち」に「オイシイ生活」をちりばめ、つなげていくことができれば、そこから何かを生み出す可能性は否定できないでしょう。NHKの番組名ではありませんが「美のツボ」は日常のあちこちから発掘できるように思います。
「なんだかそっちのほうが楽しそうだな」という思いに賭けてみる甲斐はありそうですよね。