『火山島』雑感

金石範の畢生の大作に「雑感」なる語は礼を失する思いがせぬでもないが、この作品を真正面から論ずるだけの資格も能力も持ち合わせぬ身としては、ことが断片的な感想にとどまる以上、これを雑感とせざるを得ないのである。あるいは「断感」とすべきところか。

『火山島』が、1948年済州島で起こった「四・三事件」をテーマにした作品であり、作家がこの事件の歴史的「定立」を一貫して主張し続けていることを縷々述べるつもりはない。ただ、今年が70周年に当たり、長らく「共産暴徒」とされてきた国家暴力の犠牲者たちの復権に光が当たった年であることは記憶しておこう。

『火山島』に描かれた時代は、「解放(ヘバン)」から朝鮮戦争勃発直前の数年間であり、大韓民国成立の混沌期の歴史的状況を数多くの登場人物の視点を経由しながら複眼的に描き出している。解放勢力・親日派・転向・党・白色テロ・因習・在日・・・数え上げればきりがないほど、この時代の朝鮮半島に生起した様々な歴史的ベクトルが内包され、「典型的状況における典型的性格を描きだす」とはこのことかと感得させられもするのだが、しかしそんな評価が、膨大な事実の蓄積に支えられたこの作品の価値を見積もってくれるわけではもちろんない。

『火山島』の数多くのモティーフのひとつに、植民地主義と言語の問題があると思う。たとえば、次のような一節はどうであろう。

 途中の家の石垣越しに母屋の縁側あたりから、オンニおしっこ・・・!とあらぬ女の子の日本語が耳に飛び込んできて、はっとして、そして思わず懐かしい思いが宙を駆けたが、妹や母の像がそれに乗って夜空を流星のように飛翔するのを見た。

 ゲリラ闘争に身を投じた南承之が、済州島城内の集落を歩きながら、大阪にいる妹と母を思う場面だが、そのきっかけになるのが「おしっこ」という日本語である。幼児にとって排泄という切迫した状況が、植民地時代の尾骶骨ともいえる日本語で表出される。そして、反日闘争も経験していたはずの南承之の心がそれを「懐かしい」ととらえている。その懐かしさが、日本語そのものへの懐かしさとは言えなくとも、日本語によって包摂された母や妹たちとともにあった生活圏への懐かしさを含むことは間違いないだろう。解放後の歴史を生きる主体としての立場からは唾棄すべき対象であったはずの日本語が、予測もできぬ角度から耳を浸し、それに胸を衝かれる。「はっとする」。「懐かしい思いが宙を駆ける」。

女の子は、身も心も委ねきった信頼の証としての「オンニ」という呼びかけに続けて、自らの緊急事態を「おしっこ」という言葉で告げるのだ。少なくともその瞬間において、彼女の意識のうちで、「オンニ」も「おしっこ」も断絶のない連続体としての「生活語」に他ならない。もしそう言ってよければ、彼女が「母語」とする言語体は日本語と朝鮮語が混然一体となって成り立っているのだ。それが南承之自身が心の奥深くに秘めていた感覚を目覚めさせる。

歴史学の一分野として「言語史」なるものが成立し得るのかどうかはよくわからない。しかし、仮に「日本語の歴史」を叙述しようとしたときに、「植民地における日本語」というテーマは避けて通れないものとなるだろう。そこでは当然、言語がどれほどまでにファッショ的でしかも植民地主義と密接に結び付くものであったかが、照射されてくるだろう。

「支配的な言語」という言い方は、しかし、圧倒的な強権によって強いられた言語という謂いばかりではない。個人の意識のはざまから浸透し、心情の襞をしっとりと濡らすように潜んでいる言葉があるのだ。植民地という構造的な抑圧と支配の体系のなかで、それでも日々の生活が存在していく一方で、「支配的な言語」はその日々の暮らしの中に増殖の場を見出す。

母語」と「母国語」の相克を生きねばならない人々がいることを忘れてはならない。身体化された「母語」だけで、アイデンティティが完結されるわけではないのだ。それは社会的かつ歴史的に承認されなければならない事実であり、政治的に保証されなければならない権利でもある。「在日」の作家たちが、自覚的であるか否かを問わず、創作の場で取り組まなければならなかった課題もまた、この相克に他ならないだろう。

その意味で、『火山島』もまた、「日本語文学」のなかに「定立」されねばならない屹立した作品だと思う。