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愛国心について

国旗や国歌を尊重する態度を否定する気は毛頭ありませんが、それが権力を背景にして強制されるとしたら、国旗や国歌はもはや真の愛国心とは縁もゆかりもない単なる記号に過ぎなくなるでしょう。形式的な国旗掲揚と国歌斉唱が強制され、これまた形式的な評価が教育現場に持ち込まれている現状下に健全な愛国心が生まれると政府は信じているのでしょうか。
いや、「健全な愛国心」という発想がそもそもないのかもしれません。「愛国心愛国心であって、健全も不健全もないだろう」というのが、彼らの言い分だと思います。それは、先験的で自明なものであって、検討や分析の対象にはならないもの、いわば言葉そのものとしてのみ存在し、その実態を云々することじたい、あり得ないことなのです。戦前における「国体」がまさにそうであったように、知性の対象としようと試みることがすでに不敬極まりない行為とされてしまうのです。
ところで、彼らに向かって「愛国心とは何か」と尋ねたなら、おそらく返ってくる答えは、「愛郷心」についての説明だと思われます。幼少期からの生活体験に裏打ちされた感情の蓄積が愛郷心を育むとすれば、愛郷心愛国心に比べて相対的には具体的で実体に富むものであることは否定しがたいでしょう。石川啄木の「故郷の山にむかいていうことなし 故郷の山はありがたきかな」という歌に共感できる人は今でも数多くいるでしょうし、ミヘルスの有名な「鐘楼のパトリオティズム」という概念も愛国心ではなくて愛郷心を定義した言葉だと思います。愛国心は、愛郷心のように愛情の対象となる「風景」を持ちあわせていません。啄木の歌った「故郷の山」のような「風景」こそが私たちの経験世界を意味付け、生の癒しと生きる意欲の源泉を形作りもするのですが、愛国心には「風景」が決定的にかけています。愛国心とは、愛すべき対象の姿を直ちにイメージすることが難しい形而上の概念にほかなりません。愛国心が言葉そのものとしてのみ存在するとは、この謂いです。愛国心について、正面から定義を試みるなら、ですから「愛国心とは国を愛する心である」という無様なトートロジーに身を委ねるしかないでしょう。愛国心を唱導する者たちが、愛郷心を以って、愛国心の定義に変えたがる理由がここにあります。
「マッチするつかの間海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや」という寺山修司の絶唱を、私は愛国心における「風景」の不在という主題をうたった歌として聞き取りますが、この「風景」の不在を埋めるための装置として、国旗や国歌が必要とされるのだと言ったら、穿ち過ぎた言い方になってしまうでしょうか。
愛国心とは、近代国家が要求するある種のフィクションとして成立した観念であり、それ以上でも以下でもないと言うことをしっかり記憶しておかねばなりません。愛国心がフィクションである以上、その「正当性」を保障するためには絶えざる「自己確認」の作業が必要とされます。その作業にとって不可欠のアイテムとなるのが、国旗と国歌に他ならないのです。
愛国心をフィクションとみなしているからと言って、私が愛国心を否定しているという批判は当たりません。むしろ、フィクションであることを自覚するからこそ愛国心にリアリティーを与える契機を見いだしうるのです。フィクションである以上、文学作品同様にそこには様々な解釈が成立可能です。愛国心においても、さまざまな愛の形があり得るはずです。多様な解釈が並立する状況こそ健全です。愛国心を、国旗と国歌への型にはまった身ぶり手ぶりに一元化しようとする目論見が批判されなければならない所以です。繰り返しになりますが、愛国心にもまた多元的な可能性は保障されるべきなのです。国旗と国歌を尊重する形で表現される愛国心もその多元的価値の一つとして──あくまでもその一つとして──そこに居を占めることが許されるのです。
サッカーの国際試合でのナショナルアンセムに緊張のなかでの心の高ぶりを感じた経験を持つ方は少なくないでしょう。あの感動を管理と強制によって醸成できると考えるとしたら、それは倒錯した発想と言わざるを得ないでしょう。私はそれを「逆立ちした愛国心」と呼びたいと思います。
最後になりますが、愛国心はつねに愛郷心によって検証されなければならないと考えます。我々の生存の場である郷土への愛が、抽象的な国家への「愛」に優先されるべきだというのが私の見解です。もし、国家の論理が郷土の自然や人々の生活に脅威となるとしたら、それに鋭く対峙しようとする意志こそ愛国心の名に価すると私は考えます。