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沖縄を憶う

1972年の3月のことです。高校2年生だった私は悪友たちと、鹿児島県の一番南の島、与論島に貧乏旅行を敢行しました。鹿児島港からたっぷり一昼夜かけて与論の港へ降り立ったとき、もう午後8時は過ぎていたと記憶します。桟橋におりても体がふらふらと揺れるような感覚からしばらく逃れられませんでした。宿泊費節約のため、港近くの浜に寝袋を並べて潮騒を聞きながら夜を過ごしました。頭上には降るような星空。リュクからトランジスタラジオを出して電源を入れると、沖縄のラジオ局の番組が耳に入ってきました。沖縄が括弧付きの復帰を遂げるのは、その2か月後のことです。

私の祖父母は奄美大島の生まれです。鹿児島育ちの私でしたが、学校の休みには頻繁に祖父母の住む奄美を訪れていました。奄美は1609年の島津の琉球王国侵攻以前には琉球王国の版図だったところです。その奄美の中心部名瀬市を見下ろす山の上に「沖縄を返せ」という看板が立っていたのを覚えています。私がまだ小学校2,3年生ごろのことだったと思います。

「核抜き本土並み」の掛け声も空しく、米軍の基地の固定化を前提に「沖縄復帰」は進められました。日本国憲法の保証する人権が沖縄で実現されるという期待はものの見事に裏切られました。

私が沖縄の地を初めて踏んだのは、大学1年の夏休みのことです。祖父の経営する会社が沖縄に支店を出したか何かで、親戚が集まったのだと思いますが、あやふやな記憶です。国際通りの球陽堂という大きな本屋さんで、刊行されたばかりの伊波普猶全集第1巻(平凡社)を買ったのはなぜかはっきり覚えています。伊波普猶は沖縄学の父と呼ばれた人物で、そのころには沖縄の歴史や文化への関心を私も持っていたようです。

翌年の夏休みにも、沖縄へ行きました。沖縄は海洋博で盛り上がっていました。私にはそれが沖縄の現実を隠ぺいするための欺瞞的な政策の一環のように思えましたが、同行した友人(高校の同級生)との論争の挙句、「実際に見てみないことには批判もできまい」との一言にあっけなく論破され、那覇からホーバークラフトに乗って海洋博の会場に向かいました。現在の美ら海水族館のある場所です。

海洋博のことはほとんど覚えていませんが、会場にサバニと呼ばれる沖縄の伝統的な刳り舟がおいてあってその前で写真を撮った記憶だけが残っています。海洋国家としての琉球アイデンティティがこのイベントのモチーフだったのかもしれません。

最終のバスで那覇近郊の豊見城の宿泊場所まで戻り、翌日友人と石垣島へ向かいました。(この稿続く)