反知性主義について

現代思想』2月号の特集「反知性主義と向き合う」を読みました。

反知性主義」という言葉が名指しする対象が何であるかを直ちに明言するのは難しいことですが──それゆえ十に余る論考からなるこの特集もその論点を多方面に拡散させてしまっている感を否めませんが──レイシズムヘイトスピーチ、ねとうよ、人文系軽視の大学改革、安倍政権の言説などが、反知性主義とどう向き合うかという問題を提起せしめた直接的な社会事象であることは明らかです。

私自身も、「日本をとりもどす」だとか「この道しかない」といった、自己検証能力を欠いた発話へのいらだちからこの雑誌を手に取ったわけですが──それゆえ情動にかられたという動機からすれば、私自身もじゅうぶん反知性的だったかもしれませんが──かつては特権的な知のありように対する異議申し立てをも意味しえたこの言葉が、節度を欠いた権力者たちの狭隘な視野との濃い親和性に塗りたてられた言表空間を名指しするのに有効だという事態に、一種慄然たる思いを禁じえませんでした。戦略的であり得たはずの「反知性」が、文字通りの実態と化してしまったことへの苦い驚愕です。

以上は個人的な感慨にすぎません。私がこの特集から学びえたものを書かねばなりません。この特集を通していちばん「腑に落ちた」言葉が、松本卓也の「享楽の病理」(「反知性主義の秘かな楽しみ」)でした。享楽という視点から見ていくと、「彼ら」の「文法」が実によくわかるし、享楽に身をゆだねた言説を「反知性主義」を批判的タームとして用いることで対象化することもできると感じたからです。快楽と快感への見事なまでのこだわりこそが反知性主義の原理であり、病理です。たとえばそれは「自国の歴史への誇り」という姿で現れます。そして「誇り」という快感を損ないかねない要因はノイズとして執拗に攻撃されます。仮にそれが「歴史的事実」だとしても、それを指摘し広めようとする行為は「自虐史観」というレッテルを貼り付けられてしまいます。「自虐史観」とは言いえて妙です。自分の信条(もしくは心情)をいったん括弧にくくって事実そのものと向き合おうとする真摯な態度を理解することは、快楽原則にのみ忠実な彼らにとって、ラクダが針の穴を通るより難しいことでしょう。歴史家としての知性が要求してやまない労力(苦痛に耐えて事実に向き合う精神力)は、彼らには受け入れがたいものなのです。そのような知的な営みに対しては「自虐」というレッテルでも貼らないことには、心の安定(快感)が保てないでしょう。「自虐史観」という言葉は、彼らの享楽の夢を破りかねない知性に対する不安の表れかもしれません。

「最高責任者は私だ」とうそぶいてみたり、戦後70年の首相談話にこだわったりするのも、権力者としての享楽の姿勢がしからしめるポーズなのでしょう。微妙な国際情勢に対する配慮より、「断じてテロには屈しない」という言葉から感じ取れるある種のヒロイズムが彼を突き動かしているように思えてなりません。彼もまた、自分の姿勢が批判されたとき、まさに大人げなく不快と憎悪をあらわにします。反知性主義には、自らの享楽の足場を掘り崩しかねない存在に対する、本能的ともいえる攻撃性が備わっているようです。

享楽の特権にあずかれない者たちの間にも、反知性主義は猖獗を極めています。彼らに共通するのは「「享楽の盗み」という概念」(上野俊哉反知性主義に抗うためのいくつかのアイデア」 ちなみにこの特集の白眉はこのエッセイです)です。彼らは本来自分のものであるべき享楽を誰かに奪われていると感じます。「「誰かがうまくやっている」という妄想」(前掲書)です。これが、「うまくやっている誰か」に対する攻撃性を誘発することは、在特会を例証としてあげるまでもないことでしょう。

さて、ではどうすべきなのでしょうか? 「こうした人々にとって意味があるのは、自らの主張が真理か虚偽かということではなく、それが快感をもたらしてくれるかどうか」(森政稔「反知性主義ポピュリズム中道政治の凋落」)であるのなら、理性的なポレミークの現場をいくらしつらえようとしてみても、ざるで水をすくうような話にしかなりません。この点では、この特集のほとんどの論考が、一般的な結語に終始しており、物足りないのですが、前述した上野俊哉が、回りくどくはあっても実践可能な示唆を与えてくれているので、稿を改めて紹介してみたいと思います。