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尹東柱の詩2

今朝(3月2日)の朝日新聞の社説が「日韓国交正常化50年 悲劇の詩人の思いを胸に」と題して、尹東柱に言及していました。記事のなかに「序詩」の日本語訳が引かれていたのですが、それは私の読んだ金時鐘訳ではなく、伊吹郷訳になるものでした。
そこでは「별을 노래하는 마음으로 모든 죽어가는 것을 사랑해야지 」
が「星を歌う心で 生きとし生けるものをいとおしまねば」と訳されています。もしこの訳詩が金時鐘訳に先行するものなら、「사랑하다 」という動詞に「いとおしむ」という訳語を与えたのが金時鐘の独創だとの私の前言は訂正されねばなりません。
しかし、そのこと以上に気になるのが、「모든 죽어가는 것 」が「生きとし生けるもの」と訳されていることです。この一節は、直訳すれば「すべての死に行くもの」であり、金時鐘訳では「すべての絶え入るもの」とされています。確かに私もこの箇所を「すべての命あるべきもの」と読んで見たいとの希望を述べてはいますが、しかしそれにしても「生きとし生けるもの」という座りの良すぎる日本語には逆に違和感を覚えます。
伊吹訳はこの詩の「願い」を聞き取ろうとする姿勢を示しています。ですが、「生きとし生けるもの」では、尹東柱がまさに目の当たりにしていたもの、彼がいとおしまずにはいられなかったものとの直接性が見失われてしまうようにも思えるのです。
詩人尹東柱が日々いとおしまずにはいられなかったものとは、우리 말 つまり
祖国の言葉だったと思います。植民地体制下で朝鮮語による創作活動の自由が奪われ、創氏改姓を余儀なくされ、日常語としての朝鮮語の使用すら憚られる日々のなか、言葉を愛する詩人がいとおしもうとするのが「祖国のことば」であったことは思いなかばに過ぎるものがあります。そして植民地体制~総動員体制下で、「祖国」の言葉で戦意高揚の対極にある感情を歌おうとしたこと自体、治安維持法に抵触する危険を孕んでいたというのは、金時鐘の指摘するところです。
私も尹東柱の詩に平和への希求を聞き取りたいと思います。ですが、それはあくまでも彼の人生に思いを致すところから始められなければならないでしょう。彼の詩作の底を流れる「悲しみ」ー私は平和への希求は悲しみという感情を離れては 生まれないものだと思っていますーをほんの少しでも感じられるようになることが私の願いです。もしこの感情に拠らずに「平和への希求」という正しさそのものを一般化してしまうとしたら、それは決して言葉をいとおしんだことにはならないでしょう。