ヘイトスピーチ考

神奈川新聞の特集記事「時代の正体」2月15日と16日の石橋学報道部デスクによる「ヘイトスピーチ考」上下を読んで、今在日の人々が感じている恐怖心に自分が気づけていなかったという「事実」を思い知らされた。「死ね」「殺す」という言葉を浴びせかけられている人々の前で「公正」な視線でものを考えようとしていることの無惨さとでも言ったらよいのか。
かつて在日の同僚から言われた、「足を踏んでる人間が、足を踏んだまま、足を踏まれてる人間に手をさしのべている姿に気づいていないのだ」という言葉を思い出す。
構造化された差別を内包する社会に自分が生きており、必然的にその構造に関与しているという現実を指摘されたのだ。ヘイトスピーチもその構造実体の内部からにじみ出てきた汚水のようなものであり、私自身もたっぷりその汚水に浸されているのだ。
ヘイトスピーチへのカウンター行動に見られる「過激さ」に眉をしかめる「良識」が、構造化された差別を可視化する妨げとなっているという意見を、石橋記者は取材の中で取り上げている。また、ヘイトスピーチ関東大震災時の朝鮮人虐殺の「記憶」を甦らせる在日の少年の声も紹介している。
そうなのだ。私が生きているのは朝鮮人へのジェノサイドという歴史的事実を負う社会であり、その事実を隠蔽しつつもそれを再生産し続ける社会なのだ。そし
て、もしかしたら私の依ろうとする公正さや良識が隠蔽の力学に巧みに利用されているのかも知れないのだ。
石橋記者は取材の過程で抱いた結ぼほれた感情をてこにして「現場」へ向かおうとする決意で記事を結んでいる。私も私自身の「現場」を見出だすことによって先に進むしかない。

上記記事は「カナロコ 時代の正体」で検索すればデジタル版が読めます。とてもいい記事です。記者の誠実さを強く感じました。