『火山島』雑感

金石範の畢生の大作に「雑感」なる語は礼を失する思いがせぬでもないが、この作品を真正面から論ずるだけの資格も能力も持ち合わせぬ身としては、ことが断片的な感想にとどまる以上、これを雑感とせざるを得ないのである。あるいは「断感」とすべきところか。

『火山島』が、1948年済州島で起こった「四・三事件」をテーマにした作品であり、作家がこの事件の歴史的「定立」を一貫して主張し続けていることを縷々述べるつもりはない。ただ、今年が70周年に当たり、長らく「共産暴徒」とされてきた国家暴力の犠牲者たちの復権に光が当たった年であることは記憶しておこう。

『火山島』に描かれた時代は、「解放(ヘバン)」から朝鮮戦争勃発直前の数年間であり、大韓民国成立の混沌期の歴史的状況を数多くの登場人物の視点を経由しながら複眼的に描き出している。解放勢力・親日派・転向・党・白色テロ・因習・在日・・・数え上げればきりがないほど、この時代の朝鮮半島に生起した様々な歴史的ベクトルが内包され、「典型的状況における典型的性格を描きだす」とはこのことかと感得させられもするのだが、しかしそんな評価が、膨大な事実の蓄積に支えられたこの作品の価値を見積もってくれるわけではもちろんない。

『火山島』の数多くのモティーフのひとつに、植民地主義と言語の問題があると思う。たとえば、次のような一節はどうであろう。

 途中の家の石垣越しに母屋の縁側あたりから、オンニおしっこ・・・!とあらぬ女の子の日本語が耳に飛び込んできて、はっとして、そして思わず懐かしい思いが宙を駆けたが、妹や母の像がそれに乗って夜空を流星のように飛翔するのを見た。

 ゲリラ闘争に身を投じた南承之が、済州島城内の集落を歩きながら、大阪にいる妹と母を思う場面だが、そのきっかけになるのが「おしっこ」という日本語である。幼児にとって排泄という切迫した状況が、植民地時代の尾骶骨ともいえる日本語で表出される。そして、反日闘争も経験していたはずの南承之の心がそれを「懐かしい」ととらえている。その懐かしさが、日本語そのものへの懐かしさとは言えなくとも、日本語によって包摂された母や妹たちとともにあった生活圏への懐かしさを含むことは間違いないだろう。解放後の歴史を生きる主体としての立場からは唾棄すべき対象であったはずの日本語が、予測もできぬ角度から耳を浸し、それに胸を衝かれる。「はっとする」。「懐かしい思いが宙を駆ける」。

女の子は、身も心も委ねきった信頼の証としての「オンニ」という呼びかけに続けて、自らの緊急事態を「おしっこ」という言葉で告げるのだ。少なくともその瞬間において、彼女の意識のうちで、「オンニ」も「おしっこ」も断絶のない連続体としての「生活語」に他ならない。もしそう言ってよければ、彼女が「母語」とする言語体は日本語と朝鮮語が混然一体となって成り立っているのだ。それが南承之自身が心の奥深くに秘めていた感覚を目覚めさせる。

歴史学の一分野として「言語史」なるものが成立し得るのかどうかはよくわからない。しかし、仮に「日本語の歴史」を叙述しようとしたときに、「植民地における日本語」というテーマは避けて通れないものとなるだろう。そこでは当然、言語がどれほどまでにファッショ的でしかも植民地主義と密接に結び付くものであったかが、照射されてくるだろう。

「支配的な言語」という言い方は、しかし、圧倒的な強権によって強いられた言語という謂いばかりではない。個人の意識のはざまから浸透し、心情の襞をしっとりと濡らすように潜んでいる言葉があるのだ。植民地という構造的な抑圧と支配の体系のなかで、それでも日々の生活が存在していく一方で、「支配的な言語」はその日々の暮らしの中に増殖の場を見出す。

母語」と「母国語」の相克を生きねばならない人々がいることを忘れてはならない。身体化された「母語」だけで、アイデンティティが完結されるわけではないのだ。それは社会的かつ歴史的に承認されなければならない事実であり、政治的に保証されなければならない権利でもある。「在日」の作家たちが、自覚的であるか否かを問わず、創作の場で取り組まなければならなかった課題もまた、この相克に他ならないだろう。

その意味で、『火山島』もまた、「日本語文学」のなかに「定立」されねばならない屹立した作品だと思う。

中村一成『思想としての朝鮮籍』

1947年5月2日大日本帝国憲法下の最後の勅令外国人登録令」により旧植民地出身の在留朝鮮人は外国人と見なされ、強制的に「朝鮮籍」とされた。植民地支配下に帝国臣民とされ日本国籍を有する彼らを、翌日施行される日本国憲法の享有者である日本国民から排除するためである。沖縄の米軍統治とともに、戦後民主主義のとば口にあるこのどす黒い矛盾。戦争の構造的な要因であった植民地主義の分析と反省と清算を経ずして手にした平和憲法を、しかしそれでも我々は守り通さなければならないのだが・・・。

朝鮮籍」は実在する国家の国籍ではない。1947年、大韓民国朝鮮民主主義人民共和国もまだ成立していない。解放後、呂運亨らにより朝鮮人民共和国の樹立が宣言されたが、米軍政は直ちにこれを弾圧する。「朝鮮籍」は日本において外国人であることを強要するために、つまりは日本国憲法の保証する権利の枠外にあることを明示するためだけに創出された記号なのである。在日の人々のうち、韓国籍が大半を占める今、「朝鮮籍」は北の共和国の国籍だと考えられがちだが、そうではない。もし不埒な言い方が赦されるのなら、それは依然として所属先の国民国家を持たない人々の聖痕と言えるかもしれない。
 
この著作は、朝鮮籍を持つ六人のルポルタージュである。高史明・朴鐘鳴・鄭仁・朴政恵・李実根・金石範。いずれも、思想、文学、民族教育、社会活動の領域で名を知られた人たちだ。
 
終始息が詰まるような緊張感の中で読まされる。自分が善しとしてきた微温的な価値観を土台から掘り崩してしまうような圧倒的な言葉が次から次へと飛びかかって来るからだ。確かに戦後社会の裏面について多くを知ることも出来るのだが、それは「傾聴に価する」という生半可なフレーズではとらえ尽くせない迫力でこちらのはらわたを鷲づかみにする。上述の六人の言葉が迫力を持つばかりではない。筆者中村一成の筆力が生み出す迫力でもある。無論ここで言う筆力とは、確たる思想に裏打ちされた力のある言葉を生み出す能力のことだ。いや、能力ではなく、実存と言うべきか。
暴力と脅しで押し付けられた言葉が日本語である。とはいえそれは多くの二世にとっては母語だった。そして彼らを人間たらしめている母語(mother tongue)とは、朝鮮人を貶める言葉を多く孕んだ日本語でもある。 愛憎半ばする「母語」を突きつめて、在日二世である自分の実存を紡ぎだしていく。それが鄭の創作であり、自己解放だった。
金時鐘梁石日とともに詩誌『ヂンダレ』の同人であった鄭仁を語った一節に倍音のように響いているのは他ならぬ中村一成その人の思想と感情であろう。植民地主義の身体化として現前する「母語」としての日本語を創作の場としながら、田中克彦の言う「国家語」に向かって果敢な戦いを続けた『ヂンダレ』の文学的営為を共感をもって受け止めることができる者だけに書ける言葉である。
 
筆者は本書執筆の動機をつぎのように語っている。
人間一個の実存にとって、これだけは譲れないものを「思想」というならば、金石範の朝鮮籍とはまさに「思想」に他ならなかった。以降も金は、「日本政府がその不当な政策を改めて、北朝鮮との国交を正常化することを第一に求めつつ、自分はいずれの国籍も拒否すると言い続けてきた。私はそこに込められた「思想」を辿りたいと思い、以来、朝鮮籍を「譲れぬ一線」とする人びとに会い、その思いを聞いてきた。
 南北分断に抗議して蜂起した民衆を国家権力が圧倒的な暴力で弾圧・虐殺した済州島4・3事件を生涯のテーマとして文学活動を続ける金石範は、在日朝鮮人作家として特筆されるだけでなく、「日本語文学」の中にしかるべき位置を占めなければならない大きな存在だ。国籍を拒否した文学者の思想=譲れぬ一線を、私は以下に引用する部分に強烈に感じさせられた。ある大学でのシンポジウムでの彼の発言をトレースした個所である。引用が長くなる。
じつは三、四日前の夜、軽く一杯呑んだんですよ。おかずの代わりに何か観ておったら、酒だけじゃなくて他の方に神経が行く(ので酒量が減る)から、テレビをつけたんです。
何かもみあいをやっているわけなんです。
アナウンサーが「あれは東京の警視庁から来た警官」だと言うんですよ。沖縄には警官が足りないのかと。異様な状態を見て、酒を飲みながらいろんなことを考えて・・・・・・。
松田なんとか(道之)が四〇〇、五〇〇名の軍人や警官を連れて行って、沖縄をいわば占領する。侵略ですよ。それを歴史的用語なのか「琉球処分」という。戦前の教科書には豊臣秀吉の行為が「朝鮮征伐」として載ってたけど、あれは侵略なんですね。それを「征伐」とね。琉球処分というけど、略奪であり侵略なんですよ。処分は何か悪いことをしたから罰を与えるとか、ゴミがあったらゴミを捨てるとかね。それが処分ですよ。それを独立国だった沖縄(琉球)に対してね。歴史的な言葉だから(使ってるの)かもしれんけど!
(一九四八年四月三日の)一年前、三・一独立運動の記念日に済州島全土から三万人くらいが集まってね、「親日派の排斥」とか「米軍は出ていけ」とかやったわけです。それに警察が発砲して、六人が殺され八人が重傷を負ったわけ。それでストライキが起きたら、済州島の米軍政庁が本土から警官を五〇〇人くらい入れて、「西北青年会」というテロ団体の人間が、初めて四〇〇人くらい入ってくるわけです。
私ね、辺野古の問題は臨界点に達していると思いますよ。もしあの足の悪い女性が死んだらどうするんですか? 安倍さんは「美しい日本」とかいうけど、醜いですよ。沖縄にしてもね、代議士とか内部に裏切り者を作るわけですよ。これはね、沖縄の人間を侮辱しておるんですよ。これが日本なんですかっ!

怒気を含んだ金石範の発言が、この日本で現在進行している事態の本質をどれだけ鋭く剔抉しているか。中村一成は次のように書いている。

さげすまれ、本土の犠牲にされ、「自国」の軍警に弾圧され、執拗な分断工作の対象とされ続ける──。九〇歳の作家は、沖縄に済州島を重ね合わせていた。四・三の背景には、かつて政治犯たちの流刑地であり、権力に対する批判意識が強い済州島への、権力側の差別意識と政治的な警戒心があった。

思想とは、かりにそれがナショナリズムを標榜するものであったとしても、民族や国家という限定的な諸条件を超え出て、普遍性の地平を志向しつづける契機をもつものでなければならないであろう。それが、個人の信条や信念と思想とを分かつ決定的な違いに相違ない。と同時に、思索を続ける人が現実の桎梏の中にある数多くの他者への共感と一体感とをもち得ていることが思想を成り立たせるもっとも根本的な条件だ、というのももう一方の真実だろう。

辺野古・高江に言及する本土がわの発言が決して触れようとしない沖縄と日本の歴史的経緯を、金石範は当然のごとく視野に入れながら語っている。そして、ひとりの「足の悪い女性」──おそらく、沖縄戦の経験から辺野古での抗議活動の前線に立ち続ける、金石範と同世代にあたる島袋文子さんだろう──をテレビニュースの映像から見逃していない。四・三を畢生の主題として文学活動を続けてきた金石範の思想の強靭さと確かさを改めて噛みしめさせられる発言だ。

 

「思想としての朝鮮籍」。国民国家への帰属をあらかじめ断たれつつも、そのことを自らの立脚点として、生き、苦しみ、闘ってきた人々の言葉の数々は、2017年の日本社会を生きる我々にとっても貴重な福音になるかもしれない。とりわけ、時の権力によって、憲法に保障された権利を一つひとつ奪われ、自由に考え発言し生活する権利を踏みにじられながら、失われた主体性を国家意思と同調することで疑似的に回復できると錯覚させられている多くの「日本人」にとって、本書が与えてくれる示唆は意味深い。

沖浦和光『宣教師ザビエルと被差別民』

沖浦和光の絶筆。西ヨーロッパの辺境バスク出身のフランシスコ ザビエルが、宗教改革大航海時代の奔流の中で、西インド、マルク諸島を経て日本への布教の旅を敢行する。ザビエルの眼差しの先にあったのは、各地の虐げられた民の姿であり、特に日本においてはハンセン氏病者の救済事業に力を尽くしたことが特筆される。忍性や叡尊らの西大寺律宗による「救ライ」事業が途絶え、仏教による救済の網の目からこぼれ落ちた存在であったハンセン氏病者の間にキリスト教が受容されていくについては、当時の日本社会の現状がザビエルの思想と信仰を求めていたという「歴史的必然」を指摘できるのではないか。

 
以上、本書の内容を私なりにまとめてみたのだが、改めて思うのは本書の描き出すザビエルの思想には、著者沖浦和光その人のそれが色濃くにじみ出ているということである。このザビエル像は、被差別者の存在から日本の歴史を照射しその本質をとらえようとしてきた沖浦和光でなければ、描き出せなかったものであろう。本書の起点を、ザビエルのバスク人としての実存に置いているところにも、沖浦和光らしさを強く感じて止まない。
 
沖浦和光著作に初めて触れたのは、現代の理論社から出ていた『マルクス コメンタール』に納められていた論考だったと思う。まだ二十歳前で、正統派マルキストの先輩と論争するために、ユーロコミュニズムや初期マルクスの思想に言及した論文を手当たり次第に読んでいた時期だった。確か「ヘーゲル法哲学批判」か「経哲草稿」における疎外論について論じたものだったはずだ。
 
その後大学で中世の口承文芸を学ぶようになり、漂泊民や被差別民の文化や芸能に関心を持って網野善彦らの著作をよく読んでいた頃に手にしたのが、沖浦和光野間宏との対談集『日本の聖と賤』『アジアの聖と賤』だった。以降、『竹の民俗誌』や『旅芸人のいた風景』など、熱心な読者だったとまではとうてい言えないが、継続的に沖浦和光著作には目を向けてきた。沖浦の視線がヨーロッパの思想から日本~アジアの被差別民の歴史に向かったことについてはあまり違和感は感じなかった。むしろマージナルなものの存在に強く興味をひかれてしまう自分自身の志向性に拠り所を与えてくれる業績として意識してきた。
 
中世末期の日本で短期間のうちにキリスト教徒が爆発的に増え、権力による厳しい弾圧に対しても根強い抵抗を継続したのはなぜかという歴史的問いかけにこの著作は初めて納得できる答えを与えてくれる。そして近世身分社会の確立に努める権力者にとって、神の前の平等を信じるキリシタンの思想と存在がいかに大きな脅威であったかを実感させてくれる。絶筆の先に、沖浦和光が見ようとしていた主題を自分なりに考えてみたい。
 

丸山真男を読む

丸山真男超国家主義の論理と心理 他八編』(岩波文庫)を読みました。収録されている論文の多くは丸山の名著『現代政治の思想と行動』(1956 未来社)所収のものです。同書は、丸山真男の代表的な著作であり、私も学生時代に読んだ記憶があります。今回文庫本が出たのを機に、戦後民主主義オピニオンリーダーであった丸山真男なら今日の政治状況をどうとらえるか、ということを考えてみようと思い、この本を手に取りました。 一読してみて、かつては精緻な論理を駆使して構築されていると感じた論考の端々から戦後民主主義を擁護しようとする丸山の強い思いがにじみ出ている、という印象を持ちました。それは、あるいは、立憲主義を否定し、国会を軽視する現政権への私の個人的な危機感が招き寄せたきわめて主観的な感覚に過ぎないのかもしれません。だとしても、丸山が、「逆コース」の流れを批判しながら戦後民主主義を守り通そうとして記したこれらの論考を、現状への批判的な視点から読み直そうとする姿勢そのものが的外れであるとは思えません。以下、同書からの引用を試みながら、感想を記してみます。

もはや戦後のファシズムファシズムの看板では出現できず、却って民主主義とか自由とかの標語を掲げざるをえないことになりました。そこできわめて事態は複雑になって来て、民主的自由や基本的人権の制限や蹂躙がまさに自由とデモクラシーを守るという名の下に大っぴらに行われようとしているのが現在の事態です。(「ファシズムの現代的状況」p226)

丸山のファシズム論には、今日の研究水準からはいくつかの疑義が呈せられているようですが、それを検討する力量は私にありません。この一節から感じたことだけを書いてみます。

私にはこの一節がまさに安倍政権の有り様を語っているように思えてなりません。平和の名の下に戦争法案を閣議決定し、国会審議をアリバイ作りとしか見なさず、性急にことを運ぼうとする姿勢から、いずれ例外という既成事実を積み重ね、取り返しのつかない所まで私たちの社会を駆り立てて行こうとする意図が見てとれることを、丸山の言葉が教えてくれています。 ヘイトスピーチへの規制を、言論の自由を理由に放置し、その一方でNHKや民放各社への圧力と朝日バシッングを煽り立てた現政権の欺瞞と詭弁を見れば、これをファッショ政権と呼ぶのになんの差し支えもないと丸山なら言うでしょう。 残念ながら、1950年代の丸山の危機感を我々も共有しなければならない状況が眼前に広がっているように思えてなりません。

愛国心について

国旗や国歌を尊重する態度を否定する気は毛頭ありませんが、それが権力を背景にして強制されるとしたら、国旗や国歌はもはや真の愛国心とは縁もゆかりもない単なる記号に過ぎなくなるでしょう。形式的な国旗掲揚と国歌斉唱が強制され、これまた形式的な評価が教育現場に持ち込まれている現状下に健全な愛国心が生まれると政府は信じているのでしょうか。
いや、「健全な愛国心」という発想がそもそもないのかもしれません。「愛国心愛国心であって、健全も不健全もないだろう」というのが、彼らの言い分だと思います。それは、先験的で自明なものであって、検討や分析の対象にはならないもの、いわば言葉そのものとしてのみ存在し、その実態を云々することじたい、あり得ないことなのです。戦前における「国体」がまさにそうであったように、知性の対象としようと試みることがすでに不敬極まりない行為とされてしまうのです。
ところで、彼らに向かって「愛国心とは何か」と尋ねたなら、おそらく返ってくる答えは、「愛郷心」についての説明だと思われます。幼少期からの生活体験に裏打ちされた感情の蓄積が愛郷心を育むとすれば、愛郷心愛国心に比べて相対的には具体的で実体に富むものであることは否定しがたいでしょう。石川啄木の「故郷の山にむかいていうことなし 故郷の山はありがたきかな」という歌に共感できる人は今でも数多くいるでしょうし、ミヘルスの有名な「鐘楼のパトリオティズム」という概念も愛国心ではなくて愛郷心を定義した言葉だと思います。愛国心は、愛郷心のように愛情の対象となる「風景」を持ちあわせていません。啄木の歌った「故郷の山」のような「風景」こそが私たちの経験世界を意味付け、生の癒しと生きる意欲の源泉を形作りもするのですが、愛国心には「風景」が決定的にかけています。愛国心とは、愛すべき対象の姿を直ちにイメージすることが難しい形而上の概念にほかなりません。愛国心が言葉そのものとしてのみ存在するとは、この謂いです。愛国心について、正面から定義を試みるなら、ですから「愛国心とは国を愛する心である」という無様なトートロジーに身を委ねるしかないでしょう。愛国心を唱導する者たちが、愛郷心を以って、愛国心の定義に変えたがる理由がここにあります。
「マッチするつかの間海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや」という寺山修司の絶唱を、私は愛国心における「風景」の不在という主題をうたった歌として聞き取りますが、この「風景」の不在を埋めるための装置として、国旗や国歌が必要とされるのだと言ったら、穿ち過ぎた言い方になってしまうでしょうか。
愛国心とは、近代国家が要求するある種のフィクションとして成立した観念であり、それ以上でも以下でもないと言うことをしっかり記憶しておかねばなりません。愛国心がフィクションである以上、その「正当性」を保障するためには絶えざる「自己確認」の作業が必要とされます。その作業にとって不可欠のアイテムとなるのが、国旗と国歌に他ならないのです。
愛国心をフィクションとみなしているからと言って、私が愛国心を否定しているという批判は当たりません。むしろ、フィクションであることを自覚するからこそ愛国心にリアリティーを与える契機を見いだしうるのです。フィクションである以上、文学作品同様にそこには様々な解釈が成立可能です。愛国心においても、さまざまな愛の形があり得るはずです。多様な解釈が並立する状況こそ健全です。愛国心を、国旗と国歌への型にはまった身ぶり手ぶりに一元化しようとする目論見が批判されなければならない所以です。繰り返しになりますが、愛国心にもまた多元的な可能性は保障されるべきなのです。国旗と国歌を尊重する形で表現される愛国心もその多元的価値の一つとして──あくまでもその一つとして──そこに居を占めることが許されるのです。
サッカーの国際試合でのナショナルアンセムに緊張のなかでの心の高ぶりを感じた経験を持つ方は少なくないでしょう。あの感動を管理と強制によって醸成できると考えるとしたら、それは倒錯した発想と言わざるを得ないでしょう。私はそれを「逆立ちした愛国心」と呼びたいと思います。
最後になりますが、愛国心はつねに愛郷心によって検証されなければならないと考えます。我々の生存の場である郷土への愛が、抽象的な国家への「愛」に優先されるべきだというのが私の見解です。もし、国家の論理が郷土の自然や人々の生活に脅威となるとしたら、それに鋭く対峙しようとする意志こそ愛国心の名に価すると私は考えます。

沖縄を憶う4

先に「罪障感」と書きましたが、それは「沖縄を捨石にして生き延びた後ろめたさ」ということです。もちろん、戦後10年目の生まれである私にこのような感情を抱かせる直接的で具体的な体験があったはずはありません。それは私の母親の言動から自然に影響を受けて私の心の底に知らず知らずのうちに形成された意識の構えのようなものです。

母親は、鹿児島の薩摩半島の南部の地域の生まれです。吹上浜という遠浅の海浜を控えた所です。そこには日本陸軍の特攻隊の基地がありました。私が幼いころ、母の実家の大人たちが「ヒコージョー」という言葉で名指しする地区があり、そこはスイカ畑だったのですが、実は特攻基地の跡だったのです。中国か朝鮮から強制的に徴用されてきた人々によって作られた基地だったようです。工事の過程で亡くなった人もいたはずです。

不確かな記憶ではありますが、吹上浜には、太平洋戦争末期米軍の上陸を想定した塹壕のようなものが掘られていたという話を聞かされたことがあるように思います。母親は常々、沖縄戦がなければ、吹上浜にも米軍の上陸があり、戦闘に巻き込まれて自分も死んでいたはずだ、ということを話していました。

私が母親のもとを離れてからかなり後のことになりますが、鹿児島市内でバーを経営していた母親のところにたまたま沖縄の人が客として訪れ、ともに酒を酌み交わしながら酔った母親は相手の方が辟易するまで「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝罪の言葉をやめなかったと、その場に居合わせた人から聞かされたことがあります。私の沖縄への「罪障感」は、母親の影響抜きにはなかったものでしょう。

私の祖父母は奄美の出身で、祖父は戦前、台湾の総督府に努めていました。戦後、米軍の統治下に入った奄美に戻らず、鹿児島まで引き上げ、そこで事業を始めたようです。その家に母親は嫁いできたことになりますが、父方の親戚からは、「ヤマトの嫁」という呼ばれ方をされたそうです。

そんな母親がふとした拍子に「島の人たちは云々」と、島の人間の立ち居振る舞いに非難めいたニュアンスを含む言葉を口にしていたことを覚えています。母親が奄美の人たちにあからさまな差別意識を持っていたとも思えず、頻繁に聞かされた言葉でもありませんが、幼い私のなかにも奄美の生活習慣をどこかしら「開けていないもの」と見なすまなざしが知らず知らずのうちに植えつけられていたように思います。

その一方で、こんなこともありました。これは、母親とは直接かかわりのないことでしたが、小学校の低学年のころだったと思います。春休みだったでしょうか、奄美の祖父母のもとから妹をつれて鹿児島まで船で帰って来たときのことです。船を下りてタクシーに乗ろうとしたのですが、子どもだけでタクシーに乗ろうとするのが珍しかったのか、運転手さんが「どこから来たか」と声をかけました。「大島(鹿児島で大島と言えば、奄美大島のことです)から」と答えると「何だ、シマジンか」と言われました。子供心に胸に突き刺さるような、冷たい響きでした。鹿児島では、奄美の人を「シマンシ」(島の衆)とか「シマジン」(島人)と呼ぶことが多いのですが、「シマジン」には明らかに差別的な意味がこめられています。

沖縄へ対する「罪障感」について書くつもりが、話があらぬ方向にそれてしまったかもしれません。沖縄の話が奄美のそれに横滑りしてしまいましたし、また、思い出話というのは、どこかしら現在の自分を起点に逆算されて構成されかねない危険も秘めています。しかし、自分が差別する側にいるのか、差別される側にいるのか、いまだによくわからないままに沖縄を意識せざるを得ないという立ち位置が私にはずっとついて回っていることだけは確かなようです。図式的な言い方をすると、日本(ヤマト)によって周縁化された沖縄/琉球のさらにその周縁の奄美に由来する血脈につながりながら、そこからもどこか外れてしまったあいまいなポジショナリティーを自覚しながら、沖縄を見つめ、沖縄を考えていかなければならない、と臍を固めるしかないわけです。

さて、長々と沖縄について書いてきたのは、もちろん今辺野古で起こっていることと無関係ではありません。沖縄によって私たちは、私たちの選んだ、あるいは選ばされた政権の粗暴な正体をまざまざと見せつけられています。愛国心を称揚する一方で、郷土の自然とその中で培われてきた生活と文化を守ろうとする人々を足蹴にして恥じない為政者を日本人(ヤマトンチュ)はいつまで野放しにするのか、と問われているのだと私は感じます。その沖縄の声を聞き取る力が自分にあるのかどうか、それを考えてみるためにも、私と沖縄との関わりを思い出してみたかったのです。

ここまで、冗長でまとまりのつかない文章を読んでいただいた方、ありがとうございました。以降も、微力ながら沖縄のことを考えていこうと思います。

沖縄を憶う3

慌ただしく終わった沖縄旅行でしたが、二十歳前後に訪れた沖縄の印象は色褪せず、沖縄に関する本を手に取ることが多くなりました。柳田国男の『海南小記』や谷川健一の『孤島文化論』は沖縄の旅を追体験させてくれました。伊波普猶や金城朝永ら沖縄出身の研究者の著作にふれ、沖縄の歴史と文化を学ぼうと自分なりに努力しました。大学の卒論に「柳田国男の南島研究」というテーマを選び、柳田民俗学の形成過程で沖縄の持った意味と柳田が沖縄を体験することで「差異を内包した包括的なビジョンとしての日本人」という概念を提示し得たといったことを書いてみました。「柳田国男にとって、日本人とは何かという問いは、日本人はどうあらねばならないかという問いと不可分に成立していた。」なんて文を書いていたように思います。
卒論の準備を進めるなかでも、多くの書籍や資料に触れましたが、いちばん強い印象を与えてくれたのは、比嘉春潮の『沖縄の歳月』でした。もう絶版になったと思いますが、中公新書のなかの一冊です。沖縄の近代史と重なる人生を送った著者の回想記ながら、一個人の記憶にとどまらず、近代沖縄の精神史としても読まれるべき著作です。沖縄を強権的に明治国家のシステムに取り込んだ「琉球処分」後の沖縄の運命を内面化しながら、キリスト教トルストイズム、社会主義に影響を受けつつ思想形成を遂げ、一方で柳田国男に師事して沖縄の文化を研究し、戦後は復帰運動の担い手としても活躍した比嘉春潮は、もっと注目されて良い人物だと思います。『沖縄の歳月』の復刊も望まれます。
私はこのように沖縄を強く意識しながら二十代を送りました。そのきっかけを与えてくれたのが、沖縄を実際に訪れた経験であったことは間違いありません。しかしながら、今思い返すと、自分には沖縄へ行くことへのためらいや恐れのような感情があったように思います。その気持ちをうまく表現することは難しいのですが、ある種の罪障感とでもいうしかないような思いがこの感情の底に澱のように沈んでいるような気がします。このことを、次に書いてみることにします。(この稿続く)